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Interview高田松原再生に向けて、何から手をつけたのですか 震災の前の年の秋に、高田松原の松ぼっくりをたくさん拾っていた方がいて、「これが高田松原の松から出た松ぼっくりの種です。使ってください」と持ってきてくれました。それが5月頃で、みんなの生活も少し落ち着いてきたので、会員を探して、声をかけて、松原をなんとかしたいと伝えました。せっかく種をもらったから、その種から苗を育てて、再生に向けて頑張ろうと決めました。 同じころ、陸前高田市に他県から松苗の寄贈が11美しい松原の景観を守るために生まれた「高田松原を守る会」。震災後、会の目的は奇跡の一本松を残して流れ去ってしまった松原の再生に代わりました。内外の協力を仰ぎながら進めてきた十余年にわたる再生活動を、理事長の鈴木善久さんのお話で振り返ります。震災以前の高田松原はどのようなところでしたか 2㎞にわたる青い空、白い砂浜、その間をつなぐ緑の松林。高田松原は、国の名勝にも選ばれた白砂青松の美しい場所でした。 私たち高田松原を守る会はこうした美しい景観を、美しい状態で後世につないでいこうという目的で生まれました。当時の主な活動は清掃活動、ゴミ拾いを町内会で、あるいは学校単位で分担してやってきました。津波で流されてしまった松原を見たときは 震災直後は、公民館を避難所に、町内のみんなで寝泊まりしていました。高田松原を守る会理事長 鈴木善久さんライフラインは絶たれ木の枝を集めて煮炊きをする、そんな状況でした。そして、2週間ほどたったある日、「守る会の会長を探している」と新聞社が訪ねてきました。その時ようやく松原のことを思い出しました。海岸に向かい、一本の松を残し跡形もなくなった松原の光景を見て、頬をつねりました。痛かった。 そして、同時に奇跡的に残された一本松に祈りました。松原を復活させるから見守ってくれよと。あり、それを役立てられないかと要請がありました。また、再生の活動が本格化していく中で、松苗の育成をご指導いただいた日本緑化センターを通じて、ベターリビングを紹介していただきました。高田松原の再生のために松苗を寄付し、いっしょに育てていきたいと申し出ていただきました。苗木の育成を始めてから10年という節目を迎えて ベターリビングのお話があったとき、本当にうれしかった。苗の育成や植樹は手探りで、果たして1万本植えることができるのか、という不安もありました。全国から手助けを申し出てくれたボランティアの皆さん、サポートしてくれた企業の皆さん、陸前高田市や岩手県、本当に多くの人の手で、松の苗は順調に成長し、私の身長より高く育ったものもあります。しかし、奇跡の一本松は28.5m。高田松原の松たちがその高さまで育ち、再生活動がゴールを迎えるのは50年かかるといいます。私は124歳まで生きねばなりません(笑)未来に向け再生活動はこれからどうなっていきますか 植えた松がどんどん混み合ってくるので、間伐(間引き)をしていくことになります。これは私たちの手では難しいので陸前高田市にやり方も含めて委ねます。私たち守る会は、震災前のように、草取りやゴミ拾いなど、美しい景観を守っていく活動に戻っていきます。 再生活動の前半のヤマである植樹、育樹が終わり、この先の長い期間、多くの皆様の手を借りてきたことを、今度は自分たちの手でつないでいく、そのことで地域のコミュニティが再びまとまっていくことを期待しています。12「必ず再生するから見守ってくれよ」奇跡の一本松に誓ったその日から。

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